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タグ「思い出」を含む投稿[2件]
1985年の映画
- 2023.4.13(Thu) 09:24:46
- 感想
最近、映画を見たい熱が高まってます。でも公開されてる映画で見たいと思えるものがない。田舎なので有名どころしか公開されてないのもありますが…。ミニシアターかもん。「シン・仮面ライダー」はちょっと気になってますが、題材としては使い古された手垢つきまくりのもの。そうじゃなくて見たことも聞いたこともない話を見たいのです。もうこれ記憶を失うしかないのでは?と思う今日この頃。
さて、今日は私がまだ映画を本格的に見始めたばかりの1985年に日本で公開された映画を5本取り上げようと思います。1985年は私が二十歳になった年。お尻に卵の殻をくっつけた若造です。故にどんな映画を見ても新鮮で面白かったんですよね。そんな私から見た印象に残った映画だということをご承知おきください。
5位 スターマン/愛・宇宙はるかに
監督はジョン・カーペンター。この作品は「遊星からの物体X」「ゼイリブ」を作った監督の作品とは思えないのんびりしたものです。地球を調査しに来たと思われる宇宙船が米軍に撃墜され、乗船してた宇宙人は現地人の力を借りて仲間との合流地点を目指す…というのが簡単なあらすじ。
この宇宙人、名前や自分の星のこと、地球に来た目的などは一切語らない。不思議な力を持つ玉を持ってるけど、その玉の説明もしない。説明不足にもほどがある。でも宇宙人役のジェフ・ブリッジズと彼と行動を共にする羽目になるジェニー役のカレン・アレンのロード・ムービー的な道行きに惹きつけられる。ジェフ・ブリッジズは不自然なまでに挙動不審だしカレン・アレンはめちゃくちゃ可愛い。マジ好き。大した起伏もないのになんか印象に残る映画です。
4位 シルクウッド
メリル・ストリープ主演。核燃料工場で働いていた実在の人物、カレン・シルクウッドのお話です。
会社に疑問を持って告発しようとするカレンですが、周囲に理解を得られない。要は給料の良い働き口がなくなるからですね。彼女自身も品行方正とはとても言えない人物で、今のご時世だと全く共感を得られないタイプでしょう。でもアメリカのド田舎で生涯を過ごす人々の日常は、夢の国アメリカや西部劇しか知らない私には衝撃でした。ラストで流れるメリル・ストリープの歌う「アメイジング・グレース」が物悲しい。あまり話題になりませんでしたが、忘れられない映画のひとつです。
3位 キリング・フィールド
カンボジア内戦と、それに巻き込まれたアメリカ人ジャーナリストとその助手であるカンボジア人の実話をベースにしたお話。賛否両論ある映画だけど、日本人が直接的に関わらない戦争を映像化した映画を見るのはこれが初めてでした。
当時の私にとっての戦争とは、両親から聞かされた戦中戦後の飢えの苦しさや傷病兵になった祖父のこと、学校の教師から聞かされた学徒動員や大阪大空襲の話などが全て。ベトナム戦争なんて私が生まれる前から続いてたのにあまり興味がなかった駄目な子でした。しかし実話ベースなだけにこの映画は強烈な印象を残しました。自分が関わらない戦争へ目を向けるきっかけになった映画です。
2位 ターミネーター
説明するまでもない有名なSFアクション映画。映画の日(映画料金半額なので)に友達と待ち合わせて見に行きました。人気作なのでめっちゃ並んで入館できたのを思い出します。
当時の映画館は入れ替え制ではなく、指定席がある場合でも座席のごく一部だったので、人気作は長時間並んで順番待ちするしかなかったのです。そしてそこまでして見た甲斐のある映画でした。映画館で見て良かった。シュワルツェネッガー演じるターミネーターにスポットが当たりがちだけど、最後のシーンでサラ・コナーが全部持っていった感がありました。
続編も沢山作られたけど、私にとってはこの作品が一番です。
1位 バック・トゥ・ザ・フューチャー
これも説明するまでもないSF映画。あまりにも面白すぎて映画館で10回は見ました。何度見ても面白いんだから仕方ない。話がダレないし伏線はきっちり回収するし何よりマーティーとドクの会話が小気味よい。
すっかりマイケル・J・フォックスのファンになった私は彼の人気にあやかって放送されたアメリカのホームコメディードラマ「ファミリー・タイズ」まで見てました。生まれて初めてのめり込んだ俳優かもしれない。
そして時は流れ、今現在は三男もバック・トゥ・ザ・フューチャーのファンです。「映画館で見たかった」と遅すぎる自分の誕生を悔しがる程度には。親子揃って魅せられたこの作品がナンバーワンです。
まとめ
実を言うと5本に絞ったものの本当にこれでいいのか…?と思う程度には紹介したい映画が沢山あります。リンチ節全開の「デューン/砂の惑星」とか、老人が宇宙人の生気を吸い取って元気になる「コクーン」とか、ロード・ムービーの傑作「パリ、テキサス」とか、ファンタジー映画と言えば名前が挙がるであろう「ネバーエンディングストーリー」とか、ハリソン・フォードの代表作と言えばこれでしょう!の「刑事ジョン・ブック目撃者」とか、同性愛者が主人公の映画としては初めて見た「アナザー・カントリー」とか。ブロードウェイ関係の「アマデウス」「コーラスライン」、ホラー映画の「死霊のはらわた」も捨てがたい…などと悩んでこのラインナップ。
自分でも完全に納得できたわけじゃないのでご不満もおありかと思いますが、思い浮かんだのがこれだから仕方ない。他の映画については語る機会があれば語りたいと思います。
#映画 #思い出 #三男
さて、今日は私がまだ映画を本格的に見始めたばかりの1985年に日本で公開された映画を5本取り上げようと思います。1985年は私が二十歳になった年。お尻に卵の殻をくっつけた若造です。故にどんな映画を見ても新鮮で面白かったんですよね。そんな私から見た印象に残った映画だということをご承知おきください。
5位 スターマン/愛・宇宙はるかに
監督はジョン・カーペンター。この作品は「遊星からの物体X」「ゼイリブ」を作った監督の作品とは思えないのんびりしたものです。地球を調査しに来たと思われる宇宙船が米軍に撃墜され、乗船してた宇宙人は現地人の力を借りて仲間との合流地点を目指す…というのが簡単なあらすじ。
この宇宙人、名前や自分の星のこと、地球に来た目的などは一切語らない。不思議な力を持つ玉を持ってるけど、その玉の説明もしない。説明不足にもほどがある。でも宇宙人役のジェフ・ブリッジズと彼と行動を共にする羽目になるジェニー役のカレン・アレンのロード・ムービー的な道行きに惹きつけられる。ジェフ・ブリッジズは不自然なまでに挙動不審だしカレン・アレンはめちゃくちゃ可愛い。マジ好き。大した起伏もないのになんか印象に残る映画です。
4位 シルクウッド
メリル・ストリープ主演。核燃料工場で働いていた実在の人物、カレン・シルクウッドのお話です。
会社に疑問を持って告発しようとするカレンですが、周囲に理解を得られない。要は給料の良い働き口がなくなるからですね。彼女自身も品行方正とはとても言えない人物で、今のご時世だと全く共感を得られないタイプでしょう。でもアメリカのド田舎で生涯を過ごす人々の日常は、夢の国アメリカや西部劇しか知らない私には衝撃でした。ラストで流れるメリル・ストリープの歌う「アメイジング・グレース」が物悲しい。あまり話題になりませんでしたが、忘れられない映画のひとつです。
3位 キリング・フィールド
カンボジア内戦と、それに巻き込まれたアメリカ人ジャーナリストとその助手であるカンボジア人の実話をベースにしたお話。賛否両論ある映画だけど、日本人が直接的に関わらない戦争を映像化した映画を見るのはこれが初めてでした。
当時の私にとっての戦争とは、両親から聞かされた戦中戦後の飢えの苦しさや傷病兵になった祖父のこと、学校の教師から聞かされた学徒動員や大阪大空襲の話などが全て。ベトナム戦争なんて私が生まれる前から続いてたのにあまり興味がなかった駄目な子でした。しかし実話ベースなだけにこの映画は強烈な印象を残しました。自分が関わらない戦争へ目を向けるきっかけになった映画です。
2位 ターミネーター
説明するまでもない有名なSFアクション映画。映画の日(映画料金半額なので)に友達と待ち合わせて見に行きました。人気作なのでめっちゃ並んで入館できたのを思い出します。
当時の映画館は入れ替え制ではなく、指定席がある場合でも座席のごく一部だったので、人気作は長時間並んで順番待ちするしかなかったのです。そしてそこまでして見た甲斐のある映画でした。映画館で見て良かった。シュワルツェネッガー演じるターミネーターにスポットが当たりがちだけど、最後のシーンでサラ・コナーが全部持っていった感がありました。
続編も沢山作られたけど、私にとってはこの作品が一番です。
1位 バック・トゥ・ザ・フューチャー
これも説明するまでもないSF映画。あまりにも面白すぎて映画館で10回は見ました。何度見ても面白いんだから仕方ない。話がダレないし伏線はきっちり回収するし何よりマーティーとドクの会話が小気味よい。
すっかりマイケル・J・フォックスのファンになった私は彼の人気にあやかって放送されたアメリカのホームコメディードラマ「ファミリー・タイズ」まで見てました。生まれて初めてのめり込んだ俳優かもしれない。
そして時は流れ、今現在は三男もバック・トゥ・ザ・フューチャーのファンです。「映画館で見たかった」と遅すぎる自分の誕生を悔しがる程度には。親子揃って魅せられたこの作品がナンバーワンです。
まとめ
実を言うと5本に絞ったものの本当にこれでいいのか…?と思う程度には紹介したい映画が沢山あります。リンチ節全開の「デューン/砂の惑星」とか、老人が宇宙人の生気を吸い取って元気になる「コクーン」とか、ロード・ムービーの傑作「パリ、テキサス」とか、ファンタジー映画と言えば名前が挙がるであろう「ネバーエンディングストーリー」とか、ハリソン・フォードの代表作と言えばこれでしょう!の「刑事ジョン・ブック目撃者」とか、同性愛者が主人公の映画としては初めて見た「アナザー・カントリー」とか。ブロードウェイ関係の「アマデウス」「コーラスライン」、ホラー映画の「死霊のはらわた」も捨てがたい…などと悩んでこのラインナップ。
自分でも完全に納得できたわけじゃないのでご不満もおありかと思いますが、思い浮かんだのがこれだから仕方ない。他の映画については語る機会があれば語りたいと思います。
#映画 #思い出 #三男
昭和最晩年の商業高校生
- 2022.4.9(Sat) 15:32:11
- ひとりごと
昨日、こんな記事を読みました。
そろばん段位は当たり前
当時通ってた商業高校では卒業までに珠算3級は必ず取得しなくてはなりませんでした。私は珠算教室に通ったことがなく、小学校の授業でちょっと触ったことがあるだけだったのですが「3級ならなんとかなるか」と軽い気持ちで入学しました。ところが入学してみるとすでに段位を持ってる子の多いことと言ったら…。勉強はできなくても段位を持ってるのは当たり前みたいな雰囲気でした。流石に焦りましたね。どうにか3級は取得できましたが、それ以上は無理でした。悲しい…。かなり練習したんですけどね。なお、文化祭では珠算部が暗算で読上算を披露するのが定番になってました。
古い技術と新しい技術の同居
高2までは大体同じ授業を受けてましたが、高3では専門学科で選択科目がありました。英文タイプと情報処理です。今だと信じられない並びですが、当時はワープロ黎明期でWindows95など影も形もなかった時代。どちらも等しい扱いだったのです。まだタイピストの需要があったとも言えます。卒業してすぐ、そんなものはワープロに駆逐されるのですが。部活でも英文タイプ・かなタイプ・和文タイプ部があって、私は和文タイプ部に入部してました。和文タイプとはこんな感じ。学校にあったのはもっと大きくてハンドルを握って動かしてましたが。表だって書けるんですよ。検定では貸借対照表などを作成したものです。 選択科目では情報処理を選択したのですが、当時の流れはプログラミングは手書きでやっていた? 昭和のシステムエンジニア事情という記事を読めばわかります。習った言語はCOBOLで、BASICも触りだけ教えてもらいました。当時、商業高校ではCOBOL、工業高校ではFORTRANが選択科目にあるのが定番でしたので。紹介した記事にあるパンチカードにパンチする作業は、高校ではもちろん自分で行います。立派な設備があればキーボードで打ち込むとパンチできる機器もあったのですが、公立高校にそんな立派なものがあるわけもなく。こんな機器でパンチしてました。 結構力が要るんですよ、これ。
振り返って
あの頃は今でいうアナログとデジタルが半々ぐらいで同居してたので、私はどっちにも馴染みやすいという特性を獲得したように思います。コーディングシートに鉛筆でプログラムをカリカリ書くのに抵抗はないし、今このブログを更新してるようにWebで文字を書くのにも抵抗がない。結構面白い体験をさせてもらったお陰です。英文タイプ室から聞こえる、用紙の右側に印字が近づくと鳴る「チーン!」という音が今でも昨日のことのように蘇るのでした。
余談
父は大工だったのですが、仕事に計算尺を持って行ってました。今だと関数電卓に該当するものですね。私もちょっとだけいじったことがありますが、これを発明した人はすごいと思います。
#教育 #思い出
20数年くらい前、ようやくインターネットが普及し始めた頃に、たぶん「中高年はデジタルが苦手」みたいに言われ始めたのが最初で、その言葉だけが今も言われ続けているのだろうか?この疑問には答えられないけど、読んでるうちに自分の高校時代を思い出したのでつらつら書いてみます。うろ覚えなので間違って書いてる部分もあるかと思いますのでご容赦。ちなみに私が通っていたのは大阪市内にある某商業高校で、高校生だったのは昭和最晩年の1981〜1983年度(昭和56〜58年度)です。
No.6283 - 今日のひとことログ Nishishi's Hitokoto Log - にししふぁくとりー
そろばん段位は当たり前
当時通ってた商業高校では卒業までに珠算3級は必ず取得しなくてはなりませんでした。私は珠算教室に通ったことがなく、小学校の授業でちょっと触ったことがあるだけだったのですが「3級ならなんとかなるか」と軽い気持ちで入学しました。ところが入学してみるとすでに段位を持ってる子の多いことと言ったら…。勉強はできなくても段位を持ってるのは当たり前みたいな雰囲気でした。流石に焦りましたね。どうにか3級は取得できましたが、それ以上は無理でした。悲しい…。かなり練習したんですけどね。なお、文化祭では珠算部が暗算で読上算を披露するのが定番になってました。
古い技術と新しい技術の同居
高2までは大体同じ授業を受けてましたが、高3では専門学科で選択科目がありました。英文タイプと情報処理です。今だと信じられない並びですが、当時はワープロ黎明期でWindows95など影も形もなかった時代。どちらも等しい扱いだったのです。まだタイピストの需要があったとも言えます。卒業してすぐ、そんなものはワープロに駆逐されるのですが。部活でも英文タイプ・かなタイプ・和文タイプ部があって、私は和文タイプ部に入部してました。和文タイプとはこんな感じ。学校にあったのはもっと大きくてハンドルを握って動かしてましたが。表だって書けるんですよ。検定では貸借対照表などを作成したものです。 選択科目では情報処理を選択したのですが、当時の流れはプログラミングは手書きでやっていた? 昭和のシステムエンジニア事情という記事を読めばわかります。習った言語はCOBOLで、BASICも触りだけ教えてもらいました。当時、商業高校ではCOBOL、工業高校ではFORTRANが選択科目にあるのが定番でしたので。紹介した記事にあるパンチカードにパンチする作業は、高校ではもちろん自分で行います。立派な設備があればキーボードで打ち込むとパンチできる機器もあったのですが、公立高校にそんな立派なものがあるわけもなく。こんな機器でパンチしてました。 結構力が要るんですよ、これ。
振り返って
あの頃は今でいうアナログとデジタルが半々ぐらいで同居してたので、私はどっちにも馴染みやすいという特性を獲得したように思います。コーディングシートに鉛筆でプログラムをカリカリ書くのに抵抗はないし、今このブログを更新してるようにWebで文字を書くのにも抵抗がない。結構面白い体験をさせてもらったお陰です。英文タイプ室から聞こえる、用紙の右側に印字が近づくと鳴る「チーン!」という音が今でも昨日のことのように蘇るのでした。
余談
父は大工だったのですが、仕事に計算尺を持って行ってました。今だと関数電卓に該当するものですね。私もちょっとだけいじったことがありますが、これを発明した人はすごいと思います。
#教育 #思い出